TALK ON ANCIENT ROMANCE
赤堀の牛石

所在地 伊勢崎市五目牛町

赤堀の牛石
鎌倉時代に兄頼朝の怒りをうけた源義経は、京都を追われて奥州平泉を目ざした。
そして東山道を下り、いまの赤堀の下触にきたとき、義経が乗っていた牛が病にかかり
伏した。その場所をいまも牛伏しと呼んでいる。
義経一行はここで牛の病気のなおるのを待って出発したが、堂山というところまで
来たところ、粕川が洪水でわたれそうもなかった。追われる身で先をいそいだ義経は、
このくらいの水で渡れないはずはないと言って、試みに牛を川に入れて渡らしたのである。
ところが牛が川の中ほどまで行ったところ、渦に巻き込まれて姿を消してしまった。
そこをいま鞍が淵と呼んでいる。義経は堂山に泊まって明くる日出発したが、
洪水の引いたあとは諸所決壊して、そのなかに牛の形をした大石があらわれたのである。
これは犠牲になった牛の化身であろう。
このあと切ることのないようにと言い、この地を五目牛と命名したといわれる。
         みやま文庫 「佐波伊勢崎史帖」  しのき 弘明

参考
五目牛とは
「角川日本地名大辞典」に、江戸時代〜明治22年の村名、明治22〜現在の
大字名。源義経伝説にからむ石があり、これに五つの目があったことから
地名になったとの記載があります。また南北朝期の「足利尊氏袖判下文」
(赤堀文書/県資料編6)には「上野国赤堀郷、同貢馬石村」と見えるとのことで
「貢馬石」が「五目石」そして「五目牛」に変化したということも
考えられますが、では「貢馬石」とはいったい何のことなのでしょうか?
現在の「牛石」と同じものだったのでしょうか?興味津々ではありませんか。
Copyright(C)2009 AVIRAUM OkonogiToshio All Rights Reserved
北西、丘の登り口より
北東より

南方向より

南西方向より
西方向より
南東方向より