所在地 伊勢崎市五目牛町
赤堀の牛石
鎌倉時代に兄頼朝の怒りをうけた源義経は、京都を追われて奥州平泉を目ざした。
そして東山道を下り、いまの赤堀の下触にきたとき、義経が乗っていた牛が病にかかり
伏した。その場所をいまも牛伏しと呼んでいる。
義経一行はここで牛の病気のなおるのを待って出発したが、堂山というところまで
来たところ、粕川が洪水でわたれそうもなかった。追われる身で先をいそいだ義経は、
このくらいの水で渡れないはずはないと言って、試みに牛を川に入れて渡らしたのである。
ところが牛が川の中ほどまで行ったところ、渦に巻き込まれて姿を消してしまった。
そこをいま鞍が淵と呼んでいる。義経は堂山に泊まって明くる日出発したが、
洪水の引いたあとは諸所決壊して、そのなかに牛の形をした大石があらわれたのである。
これは犠牲になった牛の化身であろう。
このあと切ることのないようにと言い、この地を五目牛と命名したといわれる。
みやま文庫 「佐波伊勢崎史帖」 しのき 弘明
南方向より